東京地方裁判所 昭和62年(ワ)16293号 判決 1993年11月30日
原告
菊地徳
同
三橋巽子
同
菊地鐐二
同
森多美子
同
菊地契吉
同
菊地郁
同
佐藤益子
右原告ら七名訴訟代理人弁護士
石田義俊
被告
国
右代表者法務大臣
三ケ月章
右指定代理人
白井敏夫
外四名
被告
鎌倉市
右代表者市長
中西功
右訴訟代理人弁護士
石津廣司
右指定代理人
小島一男
外七名
補助参加人
得能正通
同
得能陽子
右補助参加人ら訴訟代理人弁護士
鈴木光春
同
橘田洋一
主文
一 別紙物件目録(一)記載の各土地と別紙物件目録(二)記載の土地との境界は、別紙図面二のイ、ロ、ハ、ホ、ヘ、ト、チ、リ、ヌの各点を順次直線で結ぶ線及び同図面のワ、カ、ヨ、タ、レの各点を順次直線で結ぶ線であると確定する。
二 別紙物件目録(一)記載の各土地と別紙物件目録(三)記載の土地との境界は、別紙図面一のヌ、ル、ヲ、ワの各点(ただし、ヌ、ワの各点の位置は、別紙図面二により特定する。)を順次直線で結ぶ線であると確定する。
三 訴訟費用のうち参加によって生じた費用は補助参加人らの負担とし、その余は被告らの負担とする。
事実及び理由
第一 当事者の申立て
一 原告ら
原告ら所有の別紙物件目録(一)記載の各土地と被告国所有の別紙物件目録(二)記載の土地及び被告鎌倉市所有の別紙物件目録(三)記載の土地との境界の確定を求める。
原告は、別紙図面一のイ、ロ、ハ、ニ、ホ、へ、ト、チ、リ、ヌ、ル、ヲ、ワ、カ、ヨ、タ、レの各点を順次直線で結ぶ線が境界であると主張する。
二 被告国及び被告鎌倉市
被告国及び被告鎌倉市は、右境界に関する具体的な主張をしない。
三 補助参加人ら
補助参加人らは、別紙図面一のA、B、C、D、E、F、G、H、I、J、K、L、M、N、O、P、Q、Rの各点を順次直線で結ぶ線が境界であると主張する。
第二 事案の概要
一 争いのない事実
1 原告らは、別紙物件目録(一)記載の各土地(以下「原告ら土地」と総称する。)を所有している(各土地の所有関係は、同目録記載のとおりである。)。
被告国は、別紙物件目録(二)記載の土地(以下「本件国有地」という。)を所有しており、被告鎌倉市は、別紙物件目録(三)記載の土地(以下「本件市有地」という。)を所有している。
原告ら土地と本件国有地及び本件市有地は、別紙図面三(公図)のとおり、互いに隣接しており、原告らと被告国及び被告鎌倉市は、右各土地の境界について争っている。
2 補助参加人らは、別紙図面三のとおり、本件国有地及び本件市有地の東側に隣接する別紙物件目録(四)記載の各土地(以下「補助参加人ら山林」と総称する。)を所有している(各土地の所有関係は、同目録記載のとおりである。)。
二 本件の争点は、原告ら土地と本件国有地及び本件市有地との境界(以下「本件境界」という。)がどの位置にあるかである。
被告国及び被告鎌倉市は、前記のとおり、右境界の位置について具体的な主張をしておらず、本件紛争の実態は、原告らと本件境界がどの位置にあるかによって自己の所有権の範囲について実質的に影響を受けることになる補助参加人らとの間の右境界を巡る争いである。
第三 本件各土地の来歴
以下、神奈川県鎌倉市佐助二丁目所在の土地は、例えば別紙物件目録(一)の一記載の土地を「九一一―四」というように、地番のみで特定することにする。また、以下に述べる各土地の位置関係は、別紙図面三による。
一 原告ら土地
甲一の一ないし九、四の一及び二、七、一〇の一ないし四、二〇、四三の一、三及び六、四四、四六の二七、四六の二八の一及び二、四六の二九の一及び二、四七の一ないし六、四八の一ないし一〇、五七、六〇の一、六三、六五、六七、丁七、八、一三、一五、証人得能正通(以下「得能証人」という。)、原告菊地徳本人(以下「原告徳本人」という。)、原告菊地鐐二本人(以下「原告鐐二本人」という。)、鑑定の結果、第一回及び第二回検証の結果並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
1 原告らの身分関係
原告らは、菊地藤次郎及びモト夫妻を両親とする兄弟姉妹であり、祖父は菊地為次郎、曾祖父は菊地徳兵衛である。
2 旧水田の所有権の取得
菊地徳兵衛は、もともと旧九一一の水田(別紙図面三の九一一―一、三、六を合わせた土地に当たる。)を所有し耕作していたところ、明治三〇年九月二九日、旧九一一の北側に連なる旧九一二ないし九二〇の一連の水田を伊澤官次郎から売買により取得し、以来、水田として耕作していた。
旧九一二は、同図面の九一二―一ないし三を合わせた土地に当たる。
旧九一三は、同図面の九一三―一ないし三を合わせた土地に当たる。
旧九一四は、同図面の九一四―一及び二を合わせた土地に当たる。
旧九一五は、同図面の九一五―一及び二を合わせた土地に当たる。
旧九一六は、同図面の九一六―一及び二を合わせた土地に当たる。
旧九一七は、同図面の九一七―一及び三を合わせた土地に当たる。
旧九一八ないし九二〇と菊地藤次郎が昭和一〇年に鎌倉町から払下げを受けた旧九二〇―二の土地を合わせた土地が、同図面の九一八―一ないし四及び九一九―二を合わせた土地に当たる。
菊地藤次郎は、大正八年八月八日、菊地徳兵衛から、右旧九一一ないし九二〇の水田(以下「旧水田」という。)を買い受け、以来、水田として耕作していた。
3 公道拡幅のための潰れ地の提供
その後、旧九一一から九一一―三が、旧九一二から九一二―二が、旧九一三から九一三―二が、旧九一四から九一四―二が、旧九一五から九一五―二が、旧九一六から九一六―二が、旧九一七から九一七―三が、旧九一八から九一八―二が、旧九一九から九一九―二がそれぞれ分筆された。そして、菊地藤次郎は、昭和一二年、分筆された右各土地を後記の西側公道を拡幅するための潰れ地として旧内務省に提供した。
このとき、別紙図面三の九一一―二、九二〇―四もともに西側公道拡幅のための潰れ地となった。
4 埋立て及び地目の変更
菊地徳兵衛、菊地藤次郎が耕作していた旧水田は、以下のとおり、昭和の初期から順次埋め立てられて、畑に変換されていった。
旧九一八ないし九二〇は、隣接する後記の北側公道から降雨時に土砂が流入するなどの被害があったため、昭和六年に埋立てが行われ、畑に転換され、昭和四一年に田から畑に地目を変更する登記がされた。その後、前記の西側公道の拡幅のための潰れ地の提供並びに合筆及び分筆が繰り返された結果、別紙図面三の九一八―一、三及び四のような地番及び区画になり、昭和六〇年に畑から宅地に地目変更登記がされた。
旧九一一―一(同図面の九一一―一と九一一―六を合わせた土地)、旧九一二―一(同図面の九一二―一と九一二―三を合わせた土地)及び旧九一三―一(同図面の九一三―一と九一三―三を合わせた土地)は、昭和三八年に鎌倉市農業委員会の承認の下に埋立てが行われ、田から畑に変換され、昭和四〇年に地目変更登記がされた。
さらに、九一七―一は昭和四〇年に、九一六―一は昭和四一年に、九一四―一及び九一五―一は昭和四三年に、それぞれ鎌倉市農業委員会の承認の下に埋立てが行われ、田から畑に変換されたが、土地登記簿上の地目は現在も田のままとなっている。
その後、さらに埋立てが行われ、いつのころからか右畑では耕作は行われなくなり、原告ら土地の現況は雑種地となっている。
5 市有地の払下げ
旧九一一の南側に隣接していた旧九一一―二(別紙図面三の九一一―二、四、五及び七を合わせた土地に当たる。)は、大正一一年三月三一日、被告国から被告鎌倉市の前身である旧鎌倉町に無償下付され、昭和七年に地番が付されたものであり、旧土地台帳上の地目は廃土手敷であった。
昭和三四年八月二二日、旧九一一―二から旧九一一―四(同図面の九一一―四と九一一―七を合わせた土地に当たる。)及び九一一―五の二筆の土地が分筆され、原告菊地徳は、同月二八日、被告鎌倉市から旧九一一―四を買い受けた。九一一―五は、現在も鎌倉市が所有している。右各土地の不動産登記簿上の地目は、雑種地となっている。
旧九一一―四は、その後、昭和六二年七月二七日、九一一―四と九一一―七に分筆され、九一一―七は、後記7のとおり、九一一―六、九一二―三及び九一三―三と共に、原告菊地徳から新東昭開発株式会社(以下「新東昭開発」という。)に対して売却された。
6 原告らの相続
菊地藤次郎は、昭和五二年三月に死亡し、さらに、昭和五九年三月に藤次郎の妻菊地モトが死亡し、相続が行われた結果、原告ら土地については別紙物件目録(一)記載のような所有関係となった。
7 新東昭開発への土地の売却
原告らは、菊地モトを相続した際の相続税を納付するために、昭和六二年七月二七日、旧九一一―一から九一一―六を、旧九一一―四から九一一―七を、旧九一二―一から九一二―三を、旧九一三―一から九一三―三をそれぞれ分筆して、同年一〇月三〇日、分筆された右四筆の土地を新東昭開発に売却した。
右四筆の土地は、いったん九一一―六に合筆され一筆の土地となった後、別紙図面五のとおり、新たに九一一―六、九一一―八及び九一一―九の三筆の土地に分筆された。
二 本件国有地
甲四の一及び二、二〇、四三の一及び四、六〇の一、丁七、八、二五の一ないし五によれば、次の事実が認められる。
1 本件国有地は、別紙図面三のとおり、原告ら土地と補助参加人ら山林とに挟まれた形で存在し、地番は付されていない。
2 本件国有地は、別紙図面三の現公図においては「畦畔」を示す薄緑色に着色されており、旧公図においては薄緑色に着色され(旧公図において薄緑色が何を意味するのかは、記録上明らかでない。)、公図の基礎となる改租図においては「土手」を示す薄緑色に着色されていた。
三 本件市有地
甲二、四三の一及び四、六〇の一、六三、丁七、八、二五の一ないし五によれば、次の事実が認められる。
1 本件市有地は、別紙図面三のとおり、原告ら土地に接し、本件国有地を分断する形で存在する。
この土地は、被告国から鎌倉市の前身である旧鎌倉町に対し、大正一一年三月三一日、無償下付され、昭和七年に地番が付されたものであり、現在の地目は雑種地であるが、旧土地台帳上の地目は廃土手敷であった。
2 本件市有地は、別紙図面三の現公図においては、地番が付されて着色はされていないが、旧鎌倉町が被告国から払下げを受ける以前の状態を示す改租図及び旧公図においては、本件国有地と一体のものとして、本件国有地と同様の着色がされていた。
四 補助参加人ら山林
甲三の一及び二、四の一及び二、一九の二ないし五、二〇、二八、四三の四、六七、七一、七二、丁八、一七の一及び二、一九の一ないし三、二九の一ないし三、得能証人によれば、次の事実が認められる。
1 補助参加人得能正通は、昭和三〇年一一月二一日、臼居勇から旧九二一ないし九二三の山林を購入した。
その後、右各土地の分筆及び合筆が行われた結果、現在は、別紙図面三のような地番及び区画になっている。このうち九二一―三及び九二三―三の地目は宅地に変更され、九二一―七及び九二三―一〇の地目は公衆用道路に変更されている。
2 九二二―一の山林は、昭和三八年一二月一日、補助参加人得能正通から同得能陽子に贈与された。
第四 本件各土地付近の現況
甲六ないし八、一〇の一ないし四、二〇、二一、二七ないし三七、四二、四三の一、二及び五、四四、四五、四九、五三、五八、六〇の三、四及び七、六二、六三、六六、六八ないし七〇、丁一二の一ないし五、一三、一五、一九の二及び三、二四の一及び二、得能証人、原告徳本人、原告鐐二本人、鑑定の結果、第一回及び第二回検証の結果並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
一 山林と旧水田の間の崖地の状況
1 崖地
別紙図面一及び二の原告らが主張する境界線に沿ってその東側には、高さ数メートルの東高西低の崖があり(以下「本件崖地」という。)、その上は補助参加人ら所有の山林となっており、そのうち北側の一部は宅地に造成されて家屋が建築されている。
本件崖地は、後記の擁壁及びコンクリートブロック擁壁が築かれている部分以外は、下部が岩石でできた切り立った崖となっており、少なくとも後記の擁壁よりは急傾斜である。
2 矢倉
別紙図面一及び二のロ点とハ点の間の本件崖地の麓には、「矢倉」と呼ばれる崖の岩石を掘削して造られた横穴がある。これは、この辺りに鎌倉時代に存在した北斗寺の墓地跡と言われている。
3 採石場跡
本件崖地の岩石の地質は、通称鎌倉石と呼ばれる池子火砕岩層である。
別紙図面一及び二のニ点付近の本件崖地は、同図面のハ、ニ、ホに沿ってほぼ直角に折れ曲がった断崖になっているが、この辺りはかつて鎌倉石が採石された場所である。
4 擁壁
別紙図面一及び二のヌ、ワ、カの東側の本件崖地には、自然石の擁壁(以下「擁壁」という。)が築かれている。
この擁壁は、この付近が崖崩れを起こしたため、補助参加人得能正通が、昭和五六年ころ、被告鎌倉市から工事費用の一部について助成金の支給を受けて築いたものであり、その傾斜角度は六五度である。
5 コンクリートブロック擁壁
本件崖地のかつて後記の北側公道に接していた付近は東側に湾曲していたため、北側公道から補助参加人ら山林内の宅地に登る通路として、右湾曲した部分を利用して幅員約二メートルの鉄製の階段が設置されていた。
その後、補助参加人得能正通は、別紙図面一及び二のレ点とタ点の間付近にコンクリートブロックを積み上げてほぼ垂直な擁壁(以下「コンクリートブロック擁壁」という。)を構築し、その東側に、コンクリートで固めて平坦にした南方に向かって上り坂の道路(以下「公衆用道路」という。その幅員は、従前の通路の約二倍の約四メートルである。)を造った。そのため、現在では、別紙図面一及び二のレ点とタ点の間の本件崖地の崖裾は、ほぼ直線状になっており、かつての東側への湾曲は見られなくなっている。
この公衆用道路がいつ造られたのかは明らかではないが、擁壁工事現場を撮影した写真(甲五三)には、既にこのコンクリートブロック擁壁及び公衆用道路の北端部分が写っていることから、擁壁が築かれるよりも前に造られたものであることが認められる。
別紙図面三の九二三―一〇は、昭和五九年二月一〇日、地目山林の九二三―一から分筆され、同月二〇日、公衆用道路に地目変更登記がされている。また、同図面の九二一―七も、同月一〇日、地目宅地の九二一―二から分筆され、同月二〇日、公衆用道路に地目変更登記がされている。
二 西側公道
別紙図面一及び二のとおり、本件崖地の三〇メートルほど西方には、菊地藤次郎が提供した前述の潰れ地を含めて幅員約3.7メートルの南北に走る公道(以下「西側公道」という。)が存在する。この西側公道は、北方に向かって緩やかな上り坂となっており、更に北に進むと銭洗弁天に至る。
西側公道と九一一―五ないし七、九一二―三、九一三―三、九一四―一、九一五―一、九一六―一、九一七―一及び九一八―四との境界については、昭和五〇年三月一四日及び昭和五七年五月二〇日に被告鎌倉市による査定が行われ、その際、別紙図面一及び二のき、け、こ、さ、す、せ、その各点が境界であることが確認された。右各点には、境界標識として金属鋲又はコンクリート杭が埋設されている。
本件各土地が含まれる西側公道の東側の地域はかつての扇ケ谷村字東佐助に当たり、西側公道の西側の地域はかつての扇ケ谷村字西佐助に当たる。
三 北側公道
別紙図面一及び二のとおり、別紙図面三の九二〇―三及びその北側に隣接する無番地の土地は、幅員約3.6メートルの公道になっている(以下「北側公道」という。)。東西に走るこの北側公道は、東方に向かって緩やかな上り坂となっている。
昭和五二年八月二三日、同年一〇月二九日及び昭和五四年二月一〇日の三回にわたり、原告菊地徳、補助参加人得能正通を含む関係土地所有者の立会いの下、被告鎌倉市により北側公道と九一八―一、三、四との境界査定が行われ、別紙図面一及び二のあ、い、う、え、お、かの各点が境界であることが確認された。右各点には、境界標識としてコンクリート杭が埋設されている。
四 仮集水枡
北側公道内には、別紙図面一及び二のレ点の北側に、被告鎌倉市が北側公道と九一八―一、三、四との境界査定後に設置した集水枡がある。また、レ点の南側には、菊地藤次郎が右集水枡が設置される前に設置した仮集水枡があり、その位置には、かつて菊地藤次郎が畑を耕作していたときには肥料用溜枡が置かれていた。
レ点は、右仮集水枡の北東角の点であり、金属鋲が打設されている。
五 旧九一一―四と九一一―五との間の境界の査定
旧九一一―四と九一一―五との境界については、昭和六二年五月二五日、被告鎌倉市による査定が行われ、別紙図面一及び二のそ、た、ちの各点を直線で結ぶ線が右境界の一部であることが確認された。右各点には、境界標識としてコンクリート杭又は金属鋲が埋設されている。
六 新東昭開発に売却した土地
別紙図面二のし、す、せ、そ、た、ち、つ、て、と、しの各点を結んだ直線で囲まれた土地が、前記(第三の一の7)の新東昭開発に売却された土地である。つ、て、との各点に埋設されているコンクリート杭は、分筆の際に境界標識として埋設されたものと推認される。
右土地は、宅地に造成されて平坦になっており、西側公道よりかなり高くなっている。そのため、右そ、た、ち、つの各点を直線で結んだ境界線の北側には、自然石の擁壁が築かれている。右擁壁は、西側公道と同じ高さの南側隣地を基準にすると、西側公道側の高さが二一〇センチメートルであるのに対し、本件崖地側の高さは一七〇センチメートルであり、右擁壁の高さは東西で四〇センチメートル相違しており、西側公道から本件崖地に向かって土地が緩やかに傾斜していることが分かる。
別紙図面五の九一一―六の土地の上には、家屋が建築されている。
七 原告ら土地の現況
本件崖地、北側公道及び西側公道に三方を囲まれた部分が、菊地徳兵衛及び菊地藤次郎によって、旧水田として耕作され、その後、埋め立てられて畑として耕作されていた土地にほぼ該当する。
別紙図面三の九一八―一、三、四はそれぞれ宅地に造成されて、平坦な土地となっており、九一八―三には、既に家屋が建築されている。九一八―三は、西側公道とほぼ同じ高さであり、九一八―一と九一八―三との間には段差があり、九一八―一の方が高くなっている。北側公道も東方に向かって緩やかな上り坂となっているので、九一八―一は北側公道とほぼ同じ高さとなっている。
九一八―一を除くその余の原告ら土地は、埋め立てられて、現況は雑種地となっており、西側公道と本件崖地に挟まれた部分の土地は凹凸になっている。特に擁壁下は、他の部分に比べて一段と起伏が激しくなっている。
第五 原告ら、補助参加人らの本件境界についての主張
一 原告らの主張
1 公図と現況
公図は、距離的にはともかく地形的には比較的正確であると言われているところ、本件各土地に関する公図も概ね現在の地形と一致している。
2 国有地の意義
本件の主要な問題は、公図に表示されている本件国有地がどこに位置するかである。
原告ら土地は、長年水田として耕作されていたが、その後、一部は畑となり、さらに現在は雑種地となっている。原告ら土地の東側は崖地となっており、その上は補助参加人ら山林である。
鎌倉地方では、山林と耕地との間に存在する国有地は高所を保護する崖地を指すと解されている。谷間の多い鎌倉地方においては、農業習慣として、耕地が樹木の陰になることで日照を妨げられ、農作物の成長が阻害されることを防ぐため、田畑の耕作者には、田植時から収穫期に至るまで、一定の範囲にわたり耕地に接する山林の樹木を刈り取ること(鎌倉地方では、これを「ヤナ刈り」という。)が認められていたのであって、この草刈鎌の届く範囲の傾斜地が国有地と解されるのである。
3 占有状況
菊地藤次郎及び原告らは、原告ら土地を本件崖地の崖裾までと考え、長年これを全面的に占有してきた。
4 以上、公図を参考にしつつ、現況の地形、国有地の意義、占有状況等をも考慮すると、原告ら土地と本件国有地との境界は本件崖地の崖裾の線と考えるべきである。
そして、かつて水田であった原告ら土地が埋め立てられたために、公図が作成された当時と比較して本件崖地の崖裾の線がやや東方に移動したと考えられることを考慮して、本件境界は、別紙図面一のイ、ロ、ハ、ニ、ホ、へ、ト、チ、リ、ヌ、ル、ヲ、ワ、カ、ヨ、タ、レの各点を順次直線で結ぶ線と考えるべきである。
5 原告らは、現地において別紙図面一のイ、ロ、ハ、ニ、ホ、ヘ、ト、チ、リ、ヌ、ル、ヲ、ワ、カ、ヨ、タ、レの各点に木杭を埋設することによって各点の位置を指示している。
そこで、鑑定人が、右各地点のうちイ、ロ、ハ、ニ、ホ、ヘ、ト、チ、リ、ヌ、ワ、カ、ヨ、タ、レの各点の位置を、西側公道及び北側公道の境界査定の際に埋設された境界標識としてのコンクリート杭又は金属鋲を基点に測量した結果を表示したのが、別紙図面二(鑑定書添付図面)である。別紙図面一及び二の間で、各地点間の距離について一部相違するところがあるが、測量者及び測量方法等の違いによる誤差と考えられる。
6 甲五、四三の五、五九、七二、鑑定の結果、検証の結果及び弁論の全趣旨によれば、原告ら主張の境界点の位置については、次の事実が認められる。
イ点は、別紙図面一及び二のた及びちの二点を結んだ直線の延長線上にあり、本件崖地の南西角付近に位置する。
レ点は、仮集水枡の北東角の金属鋲が打設されている地点である。
ロ、ハ、ニ、ホ、へ、ト、チ、リ、ヌ、ワ、カ、ヨ、タの各点は、いずれも本件崖地の崖裾から四〇センチメートル前後の距離にある。
二 補助参加人らの主張
1 地形の変化
昭和の初めころ、原告ら土地は西側公道より一ないし1.5メートル低い水田であり、補助参加人ら山林は、山裾を緩やかにひいて原告ら土地に接していた(別紙図面六の黒線で描かれている地形)。ところが、水田であった原告ら土地が何回かにわたって埋め立てられ、その結果、西側公道より一メートルから1.5メートルも高くなってしまった(同図面中の赤線で描かれている地形)。そのため、本件国有地と補助参加人ら山林の山裾は平地に取り込まれてしまった。さらに、その前後にわたって、菊地藤次郎又は原告らは、補助参加人ら山林の山裾を削り取って浸食し、その結果、補助参加人ら山林の西側が断崖になってしまった(同図面中の青線で描かれている地形)。
補助参加人らが昭和三〇年に臼居勇から山林を購入したときの本件崖地付近の状況は、別紙図面七のとおりであったが、その後、いつのまにか本件国有地が侵され、溝が埋められ、草刈り場と称された山裾の部分が地ならしされて、原告ら土地と地続きにされてしまった。
したがって、原告ら土地と本件国有地及び本件市有地との境界は、西側公道と補助参加人ら山林の現在の山裾との間の、原告らによって地盛りされ整地されてしまった平地の中に存在することになる。
2 国有地の意義
国有地の中には、のり地もあるが、畦畔もある。
そもそも国有地は、明治初期の公図作成の際に、所有権を主張する者が出なかった土地が国に帰属して生じたものである。のり地等は使いようがない土地ということで所有権を主張する者が出ず、国有地となった所があったのは事実である。したがって、のり地である国有地は、極端な傾斜地、すなわち崖地が一般である。
ところで、本件崖地付近は、公図が作成された明治初期の段階では、別紙図面六のように緩やかに山裾を引いていたのであって、崖地ではなかった。したがって、本件崖地は、のり地と評価される国有地が存在する場所ではなく、本件国有地は畦畔である。公図上も、本件国有地は畦畔と明記されている。
3 公図の信憑性
公図は、近代的測量術と測量用具により作成されたもので、しかも一度作成された後も幾人もの人により確認作業が行われ、また、修正されてできたものであり、公図は作成当時の地形及び境界を正確に表現しているもので、信憑性が高い。
4 したがって、土地の形状が変えられてしまっている場合には、公図を基礎として境界の位置を考えるよりほかなく、本件では西側公道と原告ら土地との境界は確定しているのであるから、右境界を基準にして公図を現地に投影することによって、原告ら土地と本件国有地及び本件市有地との境界を確定すべきである。
このようにして求めた境界線が、別紙図面一のA、B、C、D、E、F、G、H、I、J、K、L、M、N、O、P、Q、Rの各点を直線で結ぶ線である(甲六〇の七)。
5 第二回検証の結果によれば、右O、P、Q、Rの各点は、原告らが新東昭開発に売却した別紙図面五の九一一―六上に建築された家屋の敷地(庭)の中に位置することが認められる。
第六 本件境界についての検討
一 公図について
1 公図が作成された経緯及び作成方法
甲一八、四〇、乙一、二、六ないし八、一二、丁二〇及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(1) 地押丈量
明治政府は、明治五年二月一五日太政官布告第五〇号により、四民(士農工商)に土地の所有を許し、売買の自由を認め、近代的土地所有制度を確立するとともに、財政的基礎を確立する必要から、明治六年七月二八日太政官布告第二七二号「地租改正条例」により、本格的に地租改正事業を開始した。この地租改正事業の大眼目は、全国の土地を地押丈量し、各土地の所有者を確定することによって納税義務者を確定するとともに、各土地の地価を確定し、これらを登録した台帳を作成したうえ、この台帳に基づいて地租(地価の一〇〇分の三)を徴収するというものであった。
地押丈量とは、当該土地が民有地か否かはもちろん、土地の境界、範囲、面積などについて検査、測量することである。明治政府は、検査、測量を短期間の内に、しかも安価に済ませるため、かかる調査、測量を村民及び村役人にさせ、政府はこれを検査するという方法をとった。
地押とは、検査に当たり、土地の重複又は検査もれのないようにするための手続であり、この手続では、村民は、村内の土地に一筆毎に通し番号を付し、村役人の指導の下に、各筆の土地の面積を十字法(不整形の土地を直角矩形のものになぞらえて、縦横の長さで計算する方法)又は三斜法(土地をいくつかの小三角形に分かち、高さと底辺を測り、それぞれの面積を合算する方法)により調査し、畝杭を立ててその所有者の名、土地の境界範囲を明確にし、番号順に一筆毎の形状を書いた「一筆限図」を作成し、これを基礎として「一字限図」を作成し、さらに「一字限図」を寄せ集めて「一村限図」を作成し、これを改租担当官に提出した。その後、改租担当官は現地に赴き、土地所有者や村総代人らの立会いの下、検査を行い、土地の重複や検査もれのないことを確認した。
丈量とは、地押で確定された各筆の詳しい測量のことであり、改租担当官が、土地所有者や村総代人を立ち会わせて、村民から提出された測量の結果に誤りがあるかないかを検査した。この丈量においては、田畑については、一反歩につき一〇歩程度の誤差が認められていた。
このように地積測量等は、主として村民によって行われ、簡単な十字法によって測量された場合が多かったと言われている。また、改租担当官による検査も全ての土地について行われたわけではなかった。
(2) 地押調査図の作成
このようにして、明治六年から同一四年ころにかけて実施された地租改正事業の成果として、多くの「一筆限図」、「一字限図」、「一村限図」などと呼ばれる図面(以下「改租図」と総称する。)が作成されたが、改租図は現況と相違するものが少なくなかった。そのため、明治一七年一二月一六日大蔵省通達第八九号により土地台帳制度が創設され、土地台帳付属地図の整備が指示されたことに伴い、明治一八年から同二三年にかけて、公簿と実地との合致を目的とする地押調査に基づく改租図の更正が行われ、その結果、地押調査図が作成された。
この地押調査図も、まず村民によって作成され、これを役人が実地に当たって検査し、補正するという方法が取られていた。
(3) 公図
右地押調査図は、課税台帳たる土地台帳の附属地図として税務署に保管されていたが(土地台帳法施行細則二条)、昭和二五年に土地台帳事務が税務署から登記所に移管されたことにより、以後、登記所に保管されるようになり、一般に「公図」として一般の閲覧に供されている。
2 本件各土地の場合
甲四二、四三の一、四四、六〇の一及び三、丁七、八、二五の一ないし五、二六の一ないし四並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(1) 本件各土地は、明治初年には相模国鎌倉郡扇ケ谷字東佐助に属していたところ、明治七年一二月、地租改正事業の一環として地引絵図の編成を指示された扇ケ谷村民が立ち会って土地を調査、測量した結果、「第十六大區七小區扇ケ谷村全図」という表題のついた改租図(以下「本件改租図」という。)が作成された。右図面に記載された村民五五名の署名欄には、菊地徳兵衛及び補助参加人ら山林の前所有者である臼居勇の祖父に当たる臼居勇次郎の署名捺印が認められる。
(2) 現在、横浜地方法務局鎌倉出張所に保管されている旧公図は、右改租図を基礎とし、さらに明治一八年から同二三年までの間に実施された地押調査に基づく地図更正を経て作成された地押調査図であると推認される。旧公図は、和紙で作成されていたため、長年の使用による損傷が激しいので、昭和五六年一〇月二三日付けで再製されたのが現公図(別紙図面三)である。
別紙図面三は旧字東佐助の現公図であり、旧字東佐助と旧字西佐助は、西側公道を挟んで隣接する。法務局保管の公図では旧字東佐助と旧字西佐助は二枚の公図に分かれているが、鎌倉市役所保管の公図(別紙図面四)では、両地域が一枚の公図に表示されている。
(3) 本件改租図と現公図(別紙図面三)を重ね合わせてみると、改租図が作成されてから現在までの間に分筆等が行われて土地の区画が変化した点を除けば、ほぼ一致することが分かる。したがって、旧扇ケ谷村に属する地域については、地押調査に基づく改租図の更正がされなかったか、又は地押調査はされたが改租図の更正はされなかったものと推認される。
3 公図の精確さ
甲一三の一及び二、一八、四〇、六〇の六並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(1) 主に村民によって作成された改租図及び地押調査図は、前記のとおり、地租徴収のための資料として作成されたものであるため、村民は地租をできるだけ少なくしたいという動機を有していたことから、一般に現況より小さく作図されていると言われている。さらに、地積測量自体を素人である村民にさせたことに起因する不正確さ、当時の測量技術が発達していなかったことに起因する不正確さも避けられないと言われている。
また、測量については、大きな部分を計測してこれを細かく分けるべきで、逆をしてはならないとされているところ、改租図は、一筆の形状を表した「一筆限図」をつくり、これを連合して「一字限図」となし、さらに「一字限図」を合わせて「一村限図」を作成するという方法で作成されていることから、「一筆限図」の不正確さが更に累積されることになる。
以上の理由により、一般に、公図は、距離、面積、方位、角度等のような定量的な問題については、それほど信用することができないと言われているが、境界が直線であるか曲線であるか、崖になっているか平地になっているかという定性的な問題については、かなり信用することができると言われている。
(2) 本件各土地の公図の場合、前述したとおり、ほぼ明治七年に旧扇ケ谷村の村民らによって作成された改租図のままであることから、定量的な問題についての信用性は非常に低いものと推認される。現に本件改租図を基礎とする旧扇ケ谷村字西佐助に当たる地域の現公図は現況より小さく作図されていることが認められる。
したがって、本件各土地の公図には、それを現地に投影することによって境界を確定することができるほどの現地復元性は認められず、右公図に高度の現地復元性があることを前提とする補助参加人らの主張は採用することができない。
なお、補助参加人らは、別紙図面一のA点付近には、かつて境界木が植えられていたと主張し、得能証人は右の主張に沿う証言をするが、境界木の存在を裏付ける何らの記録もなく、右の証言は採用することができない。
(3) ところで、本件では、本件境界についての鑑定がされているので、ここで鑑定結果の採否について検討する。
鑑定の結果は、境界の北側部分は別紙図面一及び二のい点から公図どおりの距離及び角度をとって境界を決定して行き、境界の南側部分は、別紙図面二のつ点のコンクリート杭を基準にして現況により境界を決定するというものである。
しかしながら、前記(第四の三)のとおり、右い点は、北側公道と九一八―一等との境界査定の結果、公道と民有地の境界標識としてのコンクリート杭を埋設した地点に過ぎず、原告ら土地と本件国有地との境界点であると認定する根拠は何ら存在しない。また、右つ点のコンクリート杭も、前記(第四の六)のとおり、九一一―六を旧九一一―一から分筆する際に、九一一―一と九一一―六の境界標識として埋設されたものと推認され、右つ点が原告ら土地と本件国有地との境界石であると認定する根拠は何ら存在しない。加えて、右い点を基点として、公図どおりの距離及び角度をとって境界点を決めていくという方法は、本件各土地の公図が距離や角度等の定量的な面では信用性が低く、現地復元性がないことに照らすと、合理的な方法であるとは言いがたい。
したがって、右鑑定の結果は採用することができない。
二 公図作成後の本件崖地付近の地形の変化
1 補助参加人ら山林の山裾は切り崩されたか
(1) 補助参加人らの主張
① 昭和初期に行われた補助参加人ら山林の山裾の切崩し
補助参加人らは、昭和初期に菊地藤次郎又は原告らが別紙図面六のように傾斜が緩やかであった山裾を削り取って、本件崖地のような地形に変容したとの古老の話を根拠に、菊地藤次郎又は原告らが本件崖地付近の地形を変化させたと主張する。そして、得能証人は、補助参加人らが話を聞いた古老として、石渡イネ、阿部、久保田の三名の名前を挙げている。
右三名のうち、石渡イネは、昭和三五年に別紙図面三の九〇九―一を購入した者であるが、いつごろから本件各土地付近に居住していたかは証拠上明らかではない。また、阿部氏とは、昭和一一年に別紙図面四の六八六上の家屋を購入して移転してきた阿部嘉輔を指すものと推認され、久保田氏とは、昭和一〇年に別紙図面四の九三〇を購入して移転してきた久保田四郎を指すものと推認される。(甲三三ないし三七、四三の六、六〇の七、六二)
したがって、右古老らには、昭和一〇年以降の地形の変化しか分からないはずであるから、補助参加人らが、古老らから、昭和の初めころ、菊地藤次郎又は原告らが補助参加人ら山林の山裾を切り崩した旨の話を聞いたとすれば、その切崩しは昭和一〇年以降に行われたはずだということになる。
② 昭和二九年以降に行われた補助参加人ら山林の山裾の切崩し
また、補助参加人らは、昭和二九年の空中写真測量に基づいて作成された「源氏山」と題する縮尺三〇〇〇分の一の実測図(丁二七の一、二)及び同五九年の空中写真測量に基づいて作成された「長谷」と題する縮尺二五〇〇分の一の実測図(甲六、丁二八)とをそれぞれ縮尺二五〇分の一に拡大して比較することにより、昭和二九年から同五九年の間にも山裾が東方に後退していると主張する。
③ 原告らが地形を変更させた範囲
別紙図面一のとおり、本件崖地は南北方向の距離が約九〇メートルあり、原告ら主張の境界線と補助参加人ら主張の境界線は東西方向に数メートルの距離がある。したがって、補助参加人らの主張のとおりだとすれば、菊地藤次郎又は原告らは、補助参加人ら山林の山裾を、約九〇メートルの距離にわたり、奥行き数メートルも削り取って、山裾を東方に後退させたことになる。
(2) 補助参加人らが山林を購入する前に、右山林の山裾が切り崩されたことがあるか
昭和初期に原告らが地形を変化させたという補助参加人らの主張の根拠とされる三人の古老らの話は、補助参加人らの伝聞に過ぎない。
そこで、補助参加人らは、古老らの話を裏付ける証拠として、明治七年に作成された改租図を基礎とする縮尺六〇〇分の一の現公図を縮尺一万分の一に縮小したもの(丁八、九)、明治二四年に作成された縮尺一万二〇〇〇分の一の「鎌倉実測図」を縮尺一万分の一に拡大したもの(丁一、一〇)、明治三五年に作成された縮尺一万八〇〇〇分の一の「鎌倉遊覧実測地図」を縮尺一万分の一に拡大したもの(丁二、一一)、大正八年に作成された縮尺約一万分の一の「鎌倉」と題する地図(丁三)、昭和一一年に作成された縮尺約一万分の一の「鎌倉」と題する地図(丁四)、昭和五八年に作成された縮尺一万分の一の「鎌倉市」と題する地図(丁五)、昭和六一年に作成された縮尺一万分の一の「鎌倉」と題する地図(丁六)をそれぞれ比較して、昭和一一年までに作成された右五つの地図では西側公道からその東方の山林までの距離が同じだが、昭和五八年以降に作成された右二つの地図では西側公道とその東方の山林に挟まれた平地部分が広くなっていることを挙げる。
しかし、地図というものは、作成目的、作成方法等によって、その精度が異なり、本来的に誤差を免れることはできないものであるところ、丁一ないし六の各地図は、その作成方法も明らかではなく、それぞれどの程度の誤差を含んでいるものか明らかではない。特に、丁一ないし四の各地図は、遊覧のために名所、旧蹟の所在を示すことを主な目的とするものと考えられ、これらの地図から山裾の位置を正確に確定することはできないものと考えられる。また、縮尺一万分の一の地図では、地図上の一ミリが現実には一〇メートルの距離に該当するところ、何らかの誤差が含まれていることを考慮すると、縮尺一万分の一の地図の比較のみによって、わずか数メートルの山裾の位置の変化を導き出すことはできない。
他方、本件各土地は風致地区に指定されているところ、神奈川県は、昭和六年九月一日県令第六三号風致地区取締規則を定め、土地の形質の変更については、全て知事の許可を受けなければならないこととして、厳格に規制していた(甲四三の六、六三)。
したがって、菊地藤次郎又は原告らが山裾を削るような危険な地形変更を行えば、神奈川県又は鎌倉市から何らかの処分がされるはずであり、また、本件崖地の近隣住民から抗議がされるはずである。しかも、補助参加人らが主張するとおりだとすれば、菊地藤次郎又は原告らは相当大規模な工事を行ったことになるので、行政当局や近隣住民が気が付かないはずはない。
しかしながら、補助参加人ら山林の前所有者である臼居勇が、菊地藤次郎又は原告らに対し、山裾の切崩しに対して抗議をしたという事実は認められず、また、行政当局が山裾の地形の変更について、菊地藤次郎又は原告らに対し、何らかの処分をしたという事実も認められない。かえって、古老の一人とされる久保田四郎の相続人である久保田彰は、昭和一一年以来、本件崖地近くに居住しているが、本件崖地が切り崩されたことはない旨の証明書を提出している(甲三三ないし三七)。
また、本件崖地には、前記(第四の一の2)のとおり、鎌倉時代の矢倉が現存しており、大規模な切崩しがあったとは考えられない。
以上によれば、昭和初期に菊地藤次郎又は原告らが補助参加人ら山林の山裾を切り崩したと認めるに足りる証拠はなく、伝聞に過ぎず何ら裏付けのない古老らの話を採用することはできない。
(3) 補助参加人らが山林を購入した後に、右山林の山裾が切り崩されたことがあるか
補助参加人らは、昭和二九年以降にも菊地藤次郎又は原告らが補助参加人ら山林の山裾を切り崩したと主張するが、その根拠とするのは、昭和二九年と昭和五九年に作成された前記の二つの地図の比較のみである。
右二つの地図を同一縮尺にして比較してみると、たしかに、本件崖地の一部は昭和五九年に作成された地図では東方に後退したように見えるが、近隣の他の山林の中には、昭和二九年以降山林が平地の方向に突出したかのように見えるという不合理な現象を呈する箇所もある(甲六〇の四)。前記のとおり、地図というものは誤差を免れないことを考え合わせると、右地図の比較のみによって、山裾の位置の変化を導き出すことはできない。
他方、得能証人は、補助参加人ら山林を購入した以降、菊地藤次郎所有の旧水田が埋立てられた以外は、本件崖地の地形は現在と余り変わらないという趣旨の証言をしており、また、本件崖地近隣の住民も原告らが補助参加人ら山林の山裾を切り崩したことはない旨の証明書を提出している(甲二七ないし三九)。
また、本件崖地には、前記(第四の一の2)のとおり、鎌倉時代の矢倉が現存している。
したがって、補助参加人らが臼居勇から山林を購入した後に、山裾が切り崩されたと認めるに足りる証拠はない。
(4) 以上によれば、菊地藤次郎又は原告らが、傾斜が緩やかであった補助参加人ら山林の山裾を切り崩して、東方に後退させた上、本件崖地のような急傾斜に地形を変化させたという事実は認められない。
したがって、旧公図(地押調査図)が作成された以後、本件崖地の地形には基本的に変化がないものと推認される。
2 証拠により認定できる公図作成後の地形の変化
(1) 採石場跡
別紙図面一及び二のニ点付近の本件崖地は、同図面のハ、ニ、ホに沿ってほぼ直角に折れ曲がった断崖になっている。
前記(第四の一の3)のとおり、右ニ点付近に、かつて鎌倉石の採石場があったことを考慮すると、この辺りは、採石によって崖が直角に掘削されたものと推認される。
(2) コンクリートブロック擁壁
前記(第四の一の5)のとおり、コンクリートブロック擁壁が築かれた部分は、コンクリートブロックがほぼ垂直に積まれており、崖裾も直線状になっている。
これに対し、コンクリートブロック擁壁が築かれる以前の本件崖地は、公図(別紙図面三)上の原告ら土地と本件国有地との境界のうち北側公道に接する付近が東側に湾曲しているのと同じように、東側に湾曲していたものと認められる(甲一〇の一ないし三、二七、二八、三三ないし三七、得能証人)。
したがって、コンクリートブロック擁壁が築かれている付近の本件崖地は、地形が変更されているものと推認されるが、元の地形を明らかにすることはできない。
(3) 擁壁
前記(第四の一の1、4)のとおり、擁壁が築かれた部分は、本件崖地の他の部分よりも傾斜が緩やかであることから、擁壁が築かれる以前とは傾斜角度等が変化しているものと推認されるが、元の地形を明らかにすることはできない。
(4) 以上によれば、本件崖地は、風雨による自然な浸食のほか、ニ点付近の採石による崖の掘削、擁壁及びコンクリートブロック擁壁の築造が行われた以外は、その地形に変化がないものと認められる(なお、原告ら土地の埋立てによる本件崖地の崖裾の後退については後述する。)。
そこで、以下、公図が作成された後、本件崖地の地形には基本的に変化がないことを前提に、本件境界の位置を検討する。
三 本件国有地はどこにあるか
1 公図上「畦畔」と表示されている国有地の沿革
甲一六、一七、二三、四〇、四三の一及び四、六〇の一及び六、乙三ないし五、九ないし一二、丁七、八、二五の一ないし五並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(1) 官民有区分
地租改正事業の過程においては、土地所有者すなわち納税義務者を確定することが必要となった。そこで、明治政府は、明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号「地所名称区別改定」により、全国の土地を官有地と民有地に区分することにした。民有地については、所有権を主張する者に申出を義務付け、改租担当官が現地に赴いて個別に調査し、民有地であるということが明確に確認できる場合には、申出人を当該土地の所有者と認定した上で、当該土地につき地番を付し、地券を発行した。地券が発行された土地(民有地)には全て地番が付され、民有地以外の土地は全て官有地として処理された。
(2) 官民有区分の是正
右官民有区分に際しては、改租担当官が誤って官有地に編入したり、また、当該土地の所有者から所有を希望する旨の申出がないため、民有地と認定されなかった土地(脱落地未定地)が生じた。
このため、明治一五年一二月一二日太政官布告第五八号「請願規則」及びこれを受け継いだ明治三二年四月一七日法律第九九号「国有土地森林原野下戻法」が制定され、所有者の下戻の申出によって、その是正を図ることにした。
右法律による出願期間は、明治三三年六月三〇日と定められ、それ以降は下戻の申請は許されないとされており、右法律は誤った官民有区分を是正する最終立法とされていたところから、脱落地等は、右期限の経過によって最終的に国有地として確定されたと解される。
(3) 官民有区分の過程における畦畔の取扱
畦畔とは、保水、耕作、施肥等のために田畑等の耕地の境に設けられている細長い土地である。畦畔は、田畑等の耕地に高低差がない場合に田畑の境界をなす通常の畦畔、田畑等の耕地に高低差がある場合の上下の田畑の間の傾斜地、農道、里道及び水路などののり敷などさまざまなものがあるが、いずれも本地(田畑等の耕作地)の補助的意味を有していた。
幕藩時代は、このような畦畔は検地丈量の対象から除外されていた。地租は田畑の収穫高に応じて決められていたので、耕作面積さえ丈量すればよく、収穫のない畦畔を丈量する必要はなかったからである。同様の考え方から、地租改正事業の一環として地押丈量が行われた際も、明治八年七月八日地租改正事務局議定「地租改正条例細目」では、畦畔を除いて本地を丈量すべきことを規定していた。
このような畦畔については、所有権の帰属は必ずしも明らかではなかったが、明治九年一一月一三日内務省乙第一三〇号達「丈量ノ際畦畔削除ニ付キ達」により、丈量の際、畦畔の歩数を除いたのは、収穫調査の都合によるものであって、畦畔は本地の補助的意味を有し、もともと本地とはなれて扱うべき土地ではないことから、本地の地種に編入し、地券の外書にその歩数を登記すべきであるとされた。したがって、これにより畦畔は本地に編入されてその一部分となり、地券や土地台帳に外書でその面積が表示されることになった。このように外書きされた畦畔は、一般に「外畦畔」と呼ばれている。これに対し、丈量の際に本地の面積に含めて測量され、地券や土地台帳に内書された畦畔は、「内畦畔」と呼ばれている。
その後、畦畔に関する取扱は、昭和一〇年八月一日東京税務監督局長訓令第六五号「地租事務規程」に改編され、外書という取扱は完全に廃止され、土地の異動(地目の変更、分合筆、地積訂正等)の際に本地の地目及び地積に編入して、全て内書に表示することになった。
(4) いわゆる二線引畦畔について
田畑等の耕地の間に介在する畦畔、のり地等で、公図上、当該地が二本の実線により帯状に区画され、この部分に地番が付されず、また、土地台帳にも外書又は内書された形跡の認められないもの、すなわち土地台帳に登録されたことのないものは、一般に「二線引畦畔」と称される。二線引畦畔は、公図上、当該部分が着色されているのが普通である。
「二線引畦畔」は、「畦畔」という名前が使用されてはいるものの、一般に、その現地の実態は、多くは傾斜地であり、また、一般公衆の利用に供されている農道や畦畔などが多いと言われている。
民有地であることが確認された畦畔、すなわち農業生産上ある耕作者に専属で利用されるべきものと確認された畦畔は、前記(3)のとおり、官民有区分の際に民有地である「内畦畔」又は「外畦畔」として本地に編入され、地券を発行して私有権を認められ、その後、土地台帳、土地登記簿にも記載された。したがって、このような取扱がされていない二線引畦畔は、官有地に該当することになる。
(5) 本件国有地の場合
本件国有地は、公図にしか記載されていない土地であり、地番も付されておらず、現公図上は「畦畔」を示す薄緑色に着色されていることから、いわゆる二線引畦畔に該当するものと認められる。
2 本件国有地はどこにあるか
前記(一の3)のとおり、公図は、一般に、境界が直線であるか曲線であるか、崖になっているか平地になっているかなどの定性的な問題については信用できるとされているところ、基本的に公図が作成された当時から地形が変化していない本件崖地の崖裾の線(別紙図面一)と、現公図(別紙図面三)上の原告ら土地と本件国有地との境界線の形状とは、ほぼ一致することが認められる。
したがって、公図の記載から、本件国有地は、本件崖地の崖裾に沿って細長く存在する畦畔又は本件崖地の傾斜面のいずれかであると推認される。そこで、以下、右のいずれと考えるのが合理的かを検討する。
(1) 本件崖地の崖裾における畦畔の存在
原告ら土地がまだ田畑として耕作されていたころ、本件崖地の崖裾に沿って畦畔が存在したことが認められる(丁一二の一ないし五、得能証人)。
これに対し、補助参加人らは、臼居勇から山林を購入した当時、本件崖地付近は、別紙図面七のような状態であったと主張し、得能証人は、右図面の説明として、崖裾に一間から二間くらいの幅の棚があり、その西側に三尺から一間くらいの幅の水路が流れており、その西側に三尺くらいの幅の畦道があり、臼居勇から右畦道が本件国有地であると説明を受けたと証言する。
しかしながら、公図作成当時から本件崖地の地形が変更されていないことを前提とすると、補助参加人らの主張によれば、地目山林の土地の中に田畑の耕作に利用されると思われる水路が含まれることになってしまい、不自然である。さらに、幅三尺ないし一間位の大きな水路であるにもかかわらず、本件改租図や旧公図、その他の地図には何ら記載されておらず、また、原告ら土地の一部が耕作されていたころに撮影されたと思われる丁一二の一ないし五には、崖裾の大きな水路も崖裾から一間半ないし三間離れたところに存在するはずの幅員三尺の畦道も写っていない。しかも、得能証人は、右水路は本件崖地の崖裾の途中で姿を消してしまい、水はそこから先どこに流れていたのか分からないと証言しているが、このような大きな水路を流れる水の行方が分からないというのは不合理である。
したがって、本件崖地付近の状況が別紙図面七のような状態であったという補助参加人らの右の主張及び得能証言は、採用することができない。
(2) 本件崖地の崖裾における畦畔の所有権の帰属
本件崖地の崖裾に沿って存在したと認められる畦畔は、その位置及び公衆の利用に供される道路としては別に北側公道及び西側公道が存在したことを考慮すると、旧水田(本地)に付随する畦畔であると推認されるところ、旧水田の旧土地台帳(甲四八の一ないし一〇)及び旧水田が菊地徳兵衛から菊地藤次郎に対して売却された際の権利証(甲五七)には、旧水田の面積として本地の面積の他に外畦畔の面積が外書されている。
したがって、右畦畔は、外畦畔として民有地に区分されていたものと推認される。
(3) 本件改租図上の記載
前記(第三の二)のとおり、本件国有地は、本件改租図上は、「畦畔」と表示されていたわけではなく、本件市有地と一体のものとして「土手」を示す薄緑色に着色されていた。本件国有地が「畦畔」と表示されるようになったのは、昭和五六年に旧公図から現公図が再製されたときである。このとき、旧公図上薄緑色に着色されていた本件各土地付近の国有地の多くが、現公図上は「畦畔」を示す薄緑色に着色されるようになったが(甲四三の四、原告鐐二本人)、このような表示がされるようになった経緯は明らかではない。
(4) 国有地の払下げを受けた他の場所との比較
別紙図面四の六八三―二及び四は、菊地藤次郎が、被告国から、昭和四六年三月五日に払下げを受けた土地である。右土地は、崖の傾斜面に当たる国有地の下半分の払下げを受けたものであり、残りの上半分は現在も国有地である。(甲一二、二五、四三の二及び四、四六の二三及び二四、六〇の七、原告徳本人、原告鐐二本人、第一回及び第二回検証の結果)
右国有地は、旧扇ケ谷村字西佐助に属するところ、本件国有地と同様に、本件改租図上は山林と田に挟まれた「土手」として薄緑色に着色され、旧公図上は薄緑色に着色され、現公図の上では「畦畔」を示す薄緑色に着色されている(甲一一、二一、四三の四、六〇の一及び三、丁二五の一ないし五、原告鐐二本人)。
したがって、明らかに崖の傾斜面にある右国有地が現公図上は「畦畔」と表示されていることから、現公図上「畦畔」と表示されているからと言って、「畦畔」という言葉が本来意味するところの耕地に付随する畦畔であるとは限らないことが認められる。
(5) 近隣土地と国有地との境界査定の結果
昭和三四年八月一七日、被告鎌倉市により、別紙図面三の九〇八―一とこれに隣接する国有地(本件国有地と連続している。)との境界査定が行われ、その際、補助参加人ら山林の南側崖地の麓に存在する小洞窟中の稲荷神社を基準にして、そこから上に向かって補助参加人ら山林側に0.7間の幅をとった範囲を国有地と査定したらしいことが認められる(甲四三の五、五四の五ないし七、六〇の七、原告鐐二本人)。
(6) 占有管理状況
菊地徳兵衛及び菊地藤次郎は、本件崖地の崖裾まで水田として耕作していたものであり、また、菊地藤次郎及び原告らは、その後、旧水田を順次埋立てていったが、その埋立ての範囲は本件崖地の崖裾にまで及んだことが認められる(甲一〇の一ないし四、三三ないし三七、四三の二、五及び六、四七の二ないし五、四九、六〇の四、丁一二の一ないし五、原告徳本人、原告鐐二本人、検証の結果)。
したがって、菊地徳兵衛が旧水田の所有権を取得して以降、原告らの代に至るまで、菊地家が代々西側公道と本件崖地とに挟まれた範囲を占有してきたことが認められる。
また、本件国有地と連続している国有地に隣接する別紙図面三の九〇六、九〇七及び九〇七―二の居住者も、補助参加人ら山林の崖裾まで使用し、占有している(甲二九ないし三二、四三の五、原告鐐二本人)。
(7) 結論
以上の認定事実を総合考慮すると、原告ら土地と本件国有地の境界は公図作成時の本件崖地の崖裾の線であり、本件国有地は本件崖地の傾斜面に存在すると考えるのが合理的である。
そして、本件市有地は、もと国有地であり、公図上、本件国有地と連続していることから、本件崖地の傾斜面と平地に向かって半円形に突出した部分とから成ると考えるのが合理的であり、その位置は、擁壁が築かれている付近と推認される(甲四三の四、六〇の一及び七、六三、丁七、八、二五の一ないし五、原告鐐二本人並びに弁論の全趣旨)。
本件市有地は、本件改租図では本件国有地と一体のものとして「土手」を示す薄緑色に着色されていたことから、平地に突出した部分は耕地とは区別される緩やかな傾斜地であったのではないかと想像されるが、擁壁が築かれている付近は地形が変化しているため、現在では右部分の元の地形は明らかではない。
四 本件境界の具体的位置
1 公図作成時の本件崖地の崖裾の位置
(1) 以上により、原告ら土地と本件国有地との境界は、公図作成時の本件崖地の崖裾の線と考えられるところ、原告ら土地は、水田であった公図作成時に比べて、埋立てにより地面が高くなっているので、それに伴って本件崖地の崖裾の線も東方に後退していることが推認される。そして、本件崖地の崖裾が原告ら土地の埋立てによってどの程度移動したかは、地面の高さの変化の程度と本件崖地の傾斜角度によって決まる。
(2) そこで、まず、原告ら土地の地面の高さが、水田であったころに比べてどの程度変化したかを検討する。
原告ら土地が水田として耕作されていたころは、地面の高さは西側公道及び北側公道よりもやや低くなっていた可能性があること(甲四三の五、四七の四及び五、原告徳本人)、前記(第四の六)のとおり、別紙図面三の九一一―七と九一一―五の境界の北側に築かれている擁壁の本件崖地側の高さは一メートル七〇センチメートルであること、原告菊地徳本人は一メートル六〇ないし七〇センチメートルくらい埋め立てたと供述していることなどを総合考慮すると、原告ら土地の南端付近の地面の高さは、水田であったころに比べて約二メートル程度高くなっていることが推認される。そして、西側公道が北方に向かって上り坂になっており、北側公道も東方に向かって上り坂になっているところ、九一八―一の地面の高さは北側公道とほぼ同じであることを考慮すると、原告ら土地を埋立てた高さは、北方に向かって逓減していくものと推認される。
(3) 本件崖地の傾斜角度は、前記(第四の一の4、5)のとおり、擁壁が築造されている部分が六五度、コンクリートブロック擁壁が築造されている部分がほぼ九〇度である。その余の部分は下部が岩石でできた切り立った崖であり、その表面には凹凸もあるため、その傾斜角度は明らかではないが、擁壁及びコンクリートブロック擁壁の傾斜角度との比較から、概ね八〇度以上の傾斜角度があると推認される(甲四三の五、原告鐐二本人、第一回及び第二回検証の結果)。
(4) 崖の傾斜角度が九〇度であれば、地面の埋立てによって崖裾の線は移動しない。これに対し、崖の傾斜角度が八〇度の場合には、地面を二メートル埋め立てた場合には四〇センチメートル弱、地面を一メートル埋め立てた場合には二〇センチメートル弱、崖裾の線が移動することが認められる(甲四三の五)。
原告らは、右の埋立てによる崖裾の線の移動の程度を考慮して、現在の崖裾の線から一〇センチメートル強ないし数十センチメートルの距離の地点を境界点として主張している(甲七二、第一回及び第二回検証の結果並びに弁論の全趣旨)。
2 ニ点について
前記(一の3)のとおり、公図は境界線が直線か曲がっているかなど定性的な問題については信用性が高いのであるが、本件境界が本件崖地の崖裾にあることを前提とすると、ニ点付近の本件崖地がハ、ニ、ホに沿ってほぼ直角に折れ曲がって断崖になっている状態(別紙図面一)は、公図(別紙図面三)の本件境界の記載とは著しく異なる。したがって、採石によるニ点付近の崖地の掘削による地形の変化は、公図が作成された後に生じたことが推認される。
3 イ点について
本件境界の南端は、別紙図面三のとおり、九一一―四と本件国有地の境界の南端の点となる。そして、本件境界が公図作成時の本件崖地の崖裾にあることから、本件境界の南端は、旧九一一―四と九一一―五の境界線が本件崖地の崖裾に突き当たる点であることになる。
前記(第四の五)のとおり、旧九一一―四と九一一―五の境界については、被告鎌倉市により、昭和六二年五月二五日に再査定が行われ、その結果、別紙図面一及び二のそ、た、ちの各点を順次直線で結ぶ線が境界の一部であることが確認された。そして、公図(別紙図面三)によれば、旧九一一―四と九一一―五の残りの境界は、た及びちの各点を直線で結ぶ線の延長線上にあることが推認される。
イ点は、た及びちの各点を直線で結ぶ線の延長線上にあり、かつ、埋立てられて高くなった地面の下(すなわち、公図作成当時と地面の高さがほとんど変わらない場所と推認される。)にある本件崖地の南西角付近に存在する点であるから、この点を本件境界の南端の点と認めるのが合理的である。
4 レ点について
レ点は、仮集水枡の北東端の金属鋲が打設されている点である。
本件崖地の北側部分は、コンクリートブロック擁壁が築かれ、地形が変更されているため、公図作成当時の地形は明らかではないが、仮集水枡が設置されているということから、崖裾は仮集水枡がある位置までは及んでいなかったことが推認される。
したがって、公衆用道路が設けられている現況を前提とする限り、レ点が本件境界の北端の点と考えるのが合理的である。
5 以上の認定事実、擁壁及びコンクリートブロック擁壁が築かれている部分は元の地形が明らかではないので現況を基準として考えざるを得ないこと、並びに公図に記載された本件境界の形状を考慮すると、本件境界は、別紙図面一のイ、ロ、ハ、ホ、ヘ、ト、チ、リ、ヌ、ル、ヲ、ワ、カ、ヨ、タ、レの各点(ただし、ル及びヲを除く各点の位置は、別紙図面二により特定する。)を順次直線で結ぶ線と確定するのが合理的である。
五 公簿面積と実測面積との比較
1 別紙図面二のイ、ロ、ハ、ニ、ホ、ヘ、ト、チ、リ、ヌ、ワ、カ、ヨ、タ、レ、い、う、え、お、か、き、く、け、こ、さ、し、と、て、つ、イの各点を順次直線で結ぶ線で囲まれた範囲の実測面積は、2177.79平方メートルである(鑑定の結果)。そして、新東昭開発に売却された土地の面積、すなわち同図面のし、す、せ、そ、た、ち、つ、て、と、しの各点を順次直線で結ぶ線で囲まれた範囲の実測面積は、859.51平方メートルである(丁一三)。したがって、右二つの範囲の土地の実測面積を合計すると、3037.30平方メートルとなる。
他方、原告ら土地、九一八―三、九一八―四及び新東昭開発に売却した土地の公簿面積の合計は、2428.16平方メートルである(甲一の一ないし九、鑑定の結果)。
そこで、右実測面積の合計が右公簿面積の合計の何倍に当たるかを計算してみると、約1.25倍という結果となる。右実測面積には、別紙図面一及び二のハ、ニ、ホ、ハの各点を順次直線で結ぶ線で囲まれた三角形の土地(ニ点付近の採石により本件崖地の地形が変化したものと推認される箇所)及び本件市有地のうちヌ、ル、ヲ、ワ、ヌの各点を順次直線で結ぶ線で囲まれた部分が含まれていることを考慮すると、以上で確定された本件境界を前提とした場合の原告ら土地、九一八―三、九一八―四及び新東昭開発に売却した土地の実測面積は、右数値より少ないこととなる。
以上によれば、原告ら土地の縄のび率はおよそ二五パーセント以下であることになる。
2 不動産登記簿の当該土地の表題部の記載は、その土地の旧土地台帳の土地の表示の欄と記載を一致させたのであり(不動産登記法施行規則三条一項)、1の公簿面積は、旧土地台帳に記載されていた地積が移記されたものである(正確には、旧土地台帳に記載されていた地積から、西側公道の潰れ地として提供された土地の地積が一歩ないし二歩だけ控除されたものが移記されている。)(甲一の一ないし九、四八の一ないし一〇、五七、六〇の六)。
旧土地台帳に記載されていた田畑の地積、そしてそれを引き継いだ不動産登記簿表題部の地積は、地租改正時の地押丈量及びその後の地押調査で測量した地積であるから、公図が現況より小さく作成されたのと同様の原因により、一般に実際の面積よりも小さく記載されていると言われている(甲一八、四〇、六〇の六、六三)。本件各土地のように、明治七年に作成された改租図がほぼそのままの形で現公図に引き継がれており、したがって、公簿面積も明治七年の測量結果がほぼそのまま引き継がれている土地については、実測面積が公簿面積よりも大きいという縄のびが生じるのは当然とも言える。
したがって、原告ら土地に1の程度の縄のび率が生じることは決して不合理とは言えず、二五パーセント程度の縄のびの存在は本件境界に関する以上の認定を覆すものではない。
第七 結論
以上により、原告ら土地と本件国有地との境界は、別紙図面二のイ、ロ、ハ、ホ、ヘ、ト、チ、リ、ヌの各点を順次直線で結ぶ線及び同図面のワ、カ、ヨ、タ、レの各点を順次直線で結ぶ線であると確定するのが合理的である。また、原告ら土地と本件市有地との境界は、別紙図面一のヌ、ル、ヲ、ワの各点(ただし、ヌ、ワの各点の位置は、別紙図面二により特定する。)を順次直線で結ぶ線と確定するのが合理的である。
なお、原告ら土地は合計九筆の土地である。境界確定訴訟は地番と地番との境界を定める訴えであると言われていることから、これを厳格に考えると、原告ら土地の一筆の土地ごとに本件国有地又は本件市有地との境界を定めるべきであることになる。しかしながら、原告ら所有の九筆の各土地の間の境界はいまだ確定されておらず、また、本件記録上その境界を確定するに足りる証拠はないこと、原告ら土地全体と本 件国有地及び本件市有地との境界さえ確定すれば、本件境界を巡る紛争は解決され得ると考えられるので、本件では、主文のとおり境界を確定すれば足りると考える。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官近藤崇晴 裁判官森髙重久 裁判官伊勢素子)
別紙
別紙
別紙物件目録(一)
一 所在 鎌倉市佐助二丁目
地番 九一一番四 地目 雑種地
地積 0.43平方メートル
所有者 菊地徳
二 所在 鎌倉市佐助二丁目
地番 九一一番一 地目 雑種地
地積 3.12平方メートル
所有者 菊地徳 持分二〇〇〇分の一二五
三橋巽子 二〇〇〇分の六二五
菊地鐐二 二〇〇〇分の一二五
菊地契吉 二〇〇〇分の一二五
菊地郁 二〇〇〇分の一二五
森多美子 二〇〇〇分の二五〇
佐藤益子 二〇〇〇分の六二五
三 所在 鎌倉市佐助二丁目
地番 九一二番一 地目 雑種地
地積 4.23平方メートル
所有者 菊地 徳 持分六分の一
三橋巽子 六分の一
菊地鐐二 六分の一
菊地契吉 六分の一
菊地郁 六分の一
佐藤益子 六分の一
四 所在 鎌倉市佐助二丁目
地番 九一三番一 地目 雑種地
地積 5.38平方メートル
所有者 菊地徳 持分六分の一
三橋巽子 六分の一
菊地鐐二 六分の一
菊地契吉 六分の一
菊地郁 六分の一
佐藤益子 六分の一
五 所在 鎌倉市佐助二丁目
地番 九一四番一
地目 田
地積 一六八平方メートル
所有者 菊地郁
六 所在 鎌倉市佐助二丁目
地番 九一五番一
地目 田
地積 二二四平方メートル
所有者 菊地契吉
七 所在 鎌倉市佐助二丁目
地番 九一六番一
地目 田
地積 二三四平方メートル
所有者 菊地徳
八 所在 鎌倉市佐助二丁目
地番 九一七番一
地目 田
地積 二三一平方メートル
所有者 菊地鐐二
九 所在 鎌倉市佐助二丁目
地番 九一八番一
地目 宅地
地積 235.67平方メートル
所有者 森多美子
別紙物件目録(二)
物件目録(一)記載の各土地の東側に隣接し、物件目録(一)記載の各土地と物件目録(四)記載の各土地との間に所在する土地(別紙図面三の緑色部分)
別紙物件目録(三)
所在 鎌倉市佐助二丁目
地番 九一七番二
地目 雑種地
地積 一六平方メートル
別紙物件目録(四)
一 所在 鎌倉市佐助二丁目
地番 九二二番一
地目 山林
地積 九四〇平方メートル
所有者 得能陽子
二 所在 鎌倉市佐助二丁目
地番 九二三番一
地目 山林
地積 一四八六平方メートル
所有者 得能正通
別紙図面三ないし六<省略>